2008年6月アーカイブ
「大三巴」が「三大巴」になってますね。結局、最終日まで、このままでした。
今年は異常なほどに大雨が降り続いていたマカオですが
やっと夏らしい日がやってきました。
マカオ世界遺産観光コースの定番スポット「o那o宅廟:ナーチャ廟:ナーチャッミュウ」ですが
この時期、普段とは違った姿を見せていました。
旧暦の5月18日を中心に、「o那o宅」の誕生祝いが行われる為に
「ナーチャ廟」の前には、竹で舞台が組まれ、大三巴(聖ポール天主堂)の横にも
竹で組まれた看板が建てられていました。
時間があったので、しばらく様子を見ていると、獅子がやってきました。
丁度居合わせた人が少なかった為、至近距離で迫力ある演技を見ることが出来ました。


最後に爆竹の大音響と共に獅子舞が終わってから、一団が移動を始めたのですが
その時、小さな人形のようなものを運んでいるのに気が付きました。

ご本尊と呼べばよいのでしょうか?「ナーチャ」の像です。
さっきまで、焼豚とともに廟の前においてあったのですが
まったく気が付きませんでした(汗)。
この後、一団と共にトラックに乗って移動していきました。
おそらく「媽閣」へ向かったのでしょうか。
まるで「o那o宅」が天気を回復させたかのような、すがすがしい一日でした。

マカオの歴史に、日本が密接に関係していることは
マカオに興味がある人以外には、あまり知られていないようです。
マカオを代表する観光地の一つ、「聖パウロ教会(セント・ポール)跡」に残る
巨大なファザード「大三巴牌坊」の建造に、日本人が大きな役割を果たしたことは
マカオでも、広く認知されているとおもいます。(ファザードとは、建物の正面を指す)
現在残っている「聖パウロ教会」の前壁が建造されたのが、1602年から1637年の間とされていて
その頃、日本で秀吉や家康に迫害されたキリスト教信者たちがマカオへ逃れてきたそうです。
そのマカオへ逃れた「天主教」信者たち住んでいたのが「聖パウロ教会」裏の「茨林圍」でした。
その中に「芸術家」や「大工」などが居ることを知った教会は、
建設コスト削減のため「日本人」に建設への参加を依頼したと聞きました。
その後、1835年、「聖保禄教堂:大三巴」の(前身にあたる教会の火災とあわせて)3度目の火災の後
「茨林圍」の日本人は、澳門の中国人により、追い払われたそうです。
「茨林圍」の名前の由来についてですが、「茨」の文字は、「馬鈴薯」を指しているようです。
当時、ここで暮らしていた日本人が「馬鈴薯」を大量に栽培していた為、この名前が付いたと聞きました。
(「馬鈴茨」という言葉は、私の持っている辞典、辞典では、見当りませんでしたが、「茨林圍」のすぐ近くにある、私のお気に入りの茶餐廳「美満」にも「茨」が、頭に付くメニューがありました。)
ただし、中文字の意味をそのままポルトガル語に訳したためでしょうか、
ポルトガル語では「苦痛」や「棘」という意味の「ESPINHO」という名前が付けられています。
そのままでも、「茨林圍」が辿ってきた歴史を現している気がします。

現在の「茨林圍」には、馬鈴薯も日本人が居たことを忍ばせるものはありませんが、
当時、ここに住んでいた日本人たちが、使っていたと伝えられる井戸が残っています。
何時の年代か不明ですが、マカオで何処かの井戸から細菌が検出されたのを受けて、
当時の衛生局が全ての湧き水、井戸水の使用を禁止したと聞きました。
それが理由なのかどうかは不明ですが、現在、その井戸はコンクリートで硬く蓋を閉じられて
歴史の表舞台に出ることもなく、ひっそりと余生を過ごしています。
また、近代、マカオ・ポルトガル政府が「大三巴」を観光地化するにあたり
「茨林圍」の周りに壁を作って、外部と隔離したそうです。
そのため、内部には、現在のマカオとは少しかけ離れた雰囲気が漂っています。

気にしなくても良いのかも知れませんが、
外部の人間を歓迎するという様な雰囲気では無いようですので、
少人数、興味本位では、内部まで入っていかないことをお勧めしておきます。
(犬が多数放し飼いになっています。)
